歩行中の事故で高次脳機能障害、身体障害者に。いま、新しい自分を再プロデュース。

Eさんは、約3年前に交通事故に遭いました。高次脳機能障害、脳脊髄液減少症、右半身の不自由さがあり、足漕ぎ式の車いすで生活しています。

在宅ワークを目指して

「日によって症状や体調の変化が大きいですね。例えば気圧も大きく関係していて、日本のずっと南で発生した台風や地震でも症状に影響が出てしまいます」

 

Eさんは現在 就労移行支援manaby を利用しており、自宅にいながら週に3日訓練を行っています。

 

理学療法士として働いていましたが、事故によって高次脳機能障害と身体障害が残り、社会復帰をする際は業種を転向する必要があると考えました。療養、リハビリをしながら働き方を考えたとき、パソコンを使った在宅ワークを目指そうとmanabyにたどり着きます。

 

「就労移行支援事業所をいくつか検討しましたが合うところが見つからず、あきらめかけたときに電話をかけたのがmanabyでした」

 

通える範囲にある就労移行支援事業所7件ほどを検討し、いくつか見学にも行きました。しかし、車いすで利用出来ない環境であったり、事業所の対応に制限があったりして、利用には至りませんでした。最後の候補であるmanabyに電話した際、支援員の明るく生き生きとした声に励まされたとEさんは言います。

 

「精神・身体障害者が対象とあっても、アクセスがスムーズにいかず、バリアフリーが浸透していない環境も多かった。見えないバリアによって本来の制度との温度差を感じました。manabyでは在宅訓練ができることと、利用前から支援員が寄り添ってくれたことが心強く、ここで学びたい!と強く思った自分がいましたね」

 

manabyで訓練を始めて3か月。Eさんは高次脳機能障害によって記憶できることに限りがありますが、eラーニング動画をみながら学習内容を画面イメージで覚え、覚えたことを文章として書き出し、図表を作成して色分けし要点を整理することで習得しています。自分なりの方法で記憶の負荷を軽減し、工夫をしています。

 

当事者でもありそしてファシリテーターでもある自分

交通事故によって中途障害者となったEさんですが、当事者でありながら自らファシリテーターとなりました。

 

家族とは、まずは自分がどうしたいのか、そのためには何を優先していくべきなのかを話し合いました。他にも、医師や保険会社とのやりとり、弁護士に役所や社労士、そして社会資源とつながるために、自分が中心となってまわりとのパスをつないでいきます。

 

また、いろいろな場面で症状の変化を伝える必要があり、そして今後のためにも記録を残す必要があるため、足や麻痺のある手でも操作できるマウスを活用しながら、パソコンで書き出しています。

 

それから、理学療法士として患者さん達に向き合ってきたように、患者である自分自身にも向き合いました。現在使っている腕の装具は、理学療法士としての視点で現在の機能面に着目しつつ、将来的な変形などの予後予測も踏まえて、当事者としては生活面も大事にするために、医師の指示のもと、技師装具士と何度も調整しながら完成させた新生のパーツです。

 

「学生時代に何よりも力を入れて取り組んだことが装具の評価でした。患者さんの生活や人生の再展開に寄り添うことを目指し、現場では理学療法を全身で楽しんで、誰かの役に立ちたいと携わり続けていた仕事。事故後でも残してもらえたスキルのひとつ。自分のことなのに自分のこと以上に向き合いましたね。何としてでもこの状態と状況を変えたいと必死でした」とEさんは振り返りました。

 

自分らしさを取り戻したい!新しい自分を生み出したい!

自身のことでありながら、客観的な視点でファシリテーションをこなすEさん。一筋縄にはいかず精神的にかなり追い込まれることもありました。

 

「人は役目と役割がなくなると、頭で理解していた以上に存在価値が希薄に感じ、存在意義の捉え方も同様に一変するものなのですね」

 

Eさんは右半身が動かしにくく普通型車いすでは自走が難しいため、誰かに介助してもらう必要があります。これまでと同じように生活することも、仕事をすることも難しい。前を向こうとしても、毎日多くの症状に悩まされ、見えないバリアが立ちはだかる日々。役目と役割の喪失を目の当たりにして、生きるハリがなくなるのを感じたそうです。気持ちが前向きになるまで約9か月、その頃には後遺障害としてうつやPTSDも発症しました。

 

そんなときに今の足漕ぎ式の車いすがEさんのもとにやってきました。片方の足が動かせれば腹筋の力を原動力に自分の足でこげる車いすです。

 

通院のたびに全ての介助を頼ることが申し訳なく、運動不足で太ってしまったことにもストレスを感じていたEさん。少しでも自分でできることを見つけたい、体を使う時間と目的が欲しい、とたどり着いたのがこの車いすでした。操作レバーを動かせる左手側に付け替えて、屋外でも使用できるようにタイヤをカスタマイズしました。ここからEさんの行動範囲は少しずつ広がり、気持ちが前向きに変わっていったのです。

 

車いすで出かけていたある日、スロープで立ち往生してしまったところを、黄色い帽子の小学1年生のグループが助けてくれたことがありました。子供たちの行動に感動し、どうしてもお礼を伝えたいと学校に連絡をして後日再会が実現します。そのことが新聞社の取材を受けて記事にもなりました。自身の役割を改めて実感して社会とのつながりを感じ、再出発に向けて頑張る意欲がわくような出来事だったとEさんは教えてくれました。

 

「足漕ぎ車いすが来てから、ものごとが一つずつ数珠つながりのように動き始めた感じですね。自分らしさを取り戻したいと、挑戦したい気持ちが芽生えていきました」

 

新しい自分、未だ見ぬ自分へ

Eさんは最近、大規模マラソン大会の車いす部門に挑戦しました。

 

ゴール出来たら素晴らしいけど、できなくてもいい、やると決めて準備をして、自分と向き合いながら挑戦するということをmanabyと並行してやってみたかった、とEさん。自分の挑戦で、ここまで支えてくれた家族・友人・医療従事者の方に感謝の気持ちを伝えたいという思いもありました。

 

当日は不調もあり、最後まで不安を抱えていたというEさんですが、感覚のなくなった足を叩きながら、ゴールまで走り切りました。

 

「沿道の応援がとにかくすごくて驚きました。こんなに応援してくれるの?私を!?と。いつもテレビで目にするマラソンや駅伝の様子が車いす目線の私の視界に入ってくる!すごい世界観だと、走りながら感極まってしまいました。そして、応援がすごい力になることを改めて身をもって体感。21,839人のランナーの一人として一緒に走れたからこそ味わえた感覚でもあるのでしょうね」

大会が終わって落ち着いてから振り返ってみると、manabyでの目標設定のやり方や集中する練習が大会に向けた準備にも活かされていたのを感じる、とEさんは続けました。

 

また、manabyに通い始めてから自分らしさを感じる場面が増したとも感じているそう。訓練では、支援員との対話によって単語を思い出しやすくなり、症状に振り回されることなく、時間を決めて動けるようになったと言います。

 

「できないことや時間がかかったことを自分なりに攻略して、できたときの喜びは想像以上に大きいし、楽しいですね」

 

事故の後、計算ができなくなってからリハビリとして算数を小1からやり直し、半年かかって小学校レベルのワークを卒業したというEさん。学生時代や子育て経験でも感じた達成感を思い出しつつ、いままた学びによる気づきと成長、そして伸びしろや喜びを感じているそうです。

 

「個人的には、ハンデがあることは不自由な要因ではあるけれど、不能な要因にはならない、という気持ちでリスタートしています。多くの課題に向き合う必要があるし、模索し続けることはため息の連続ですが、そんな時こそ楽しむことを怠らないようにしています」

 

存在意義や価値を改めて客観的に見つめ、臨機応変に視点や解釈を変えながら、具体的に目標を設定して段階的に調整しながら行動し、新しく自分を再プロデュースするEさん。

 

「以前の私が現在の私に、“夢はみるだけでなく叶えるものだ”と再び襷をつないでくれました」

 

不自由であっても、やってないのにできないって決めるのはもったいない!自分の役割で誰かのお役に立ちたい!わくわくすることにチャレンジしながら成長したい!と走りたい気持ちを抑えながら、歩み続けています。

(2022年10月)