“知ってるつもり”で見えなかった自分の姿-休職・退職から再就職までの道

「ほっとした気持ちと不安が同時にある」

Jさんは、失業給付を受けながら約11か月の訓練を経て、就職を果たしました。自己と向き合った日々を振り返ります。

 

うまくいかない仕事

Jさんは、広告代理店に勤めていました。主にイベント関連の業務に携わり、施設管理や現場管理などを担当。コロナ禍にはオンラインイベントの配信や動画編集も行うなど、幅広く業務を任されていました。

 

「ミスが多くて、なんでこんなに仕事できないんだろうと思っていました」

 

日付間違いや施設のダブルブッキングにメールの添付ファイル忘れ……ケアレスミスが続きます。注意が散漫でやる気がなさそうと言われたことも。社内で異動してからは、慣れない仕事にますます失敗が重なりました。

 

会社や仲間に迷惑が掛かっているのを申し訳なく思い、自分でなんとかしないといけないと頑張るJさん。困っていても上司に相談することができずに一人で抱えてしまい、Jさんは少しずつ体調を崩していきました。そして「これは努力だけでカバーできるものではないかもしれない」と感じて病院へ。ADHDと診断されました。

 

「想像はしていたのでびっくりもしないし、安心もしませんでした。持病に加えてADHDが追加されただけ、という感覚です」

 

診断されたものの仕事の状況は変わりません。一般雇用で就職していたので配慮を求めるのも憚られました。そうするうちに、日常生活にも支障がでるほど体調は悪化。ご飯を食べられず、夜も眠れなくなったJさんは、医師の勧めで休職することになりました。

 

学生時代に感じた予兆

看護学生だった頃、担当教諭に「発達障害があるかも」と言われたことがありました。

 

「授業中きょろきょろして落ち着きがなかったとは思います。でも周りの看護師を目指す人たちは世話好きで優しい人が多かったから、特段不便を感じませんでした」

 

子供の頃から体が弱く、よく病院に通っていたJさん。手に職をつけてという母の教育方針もあり、身近だった看護師を目指そうと高校卒業後に看護学校に進学しました。しかし実習となると特性からかミスも多く、命を預かる仕事に対しての覚悟を持つことができずに中退を選択します。

 

1年ほどフリーターを経験したのち、Jさんは看護学校の先輩の推薦で看護補助者として病院に就職。職員向けの支援制度を利用してまた看護師を目指したらいいよと背中を押されたものの、結局は資格取得への強い思いが持てずに退職しました。

 

それからリゾートバイトや子供たち相手のボランティア活動に参加したりする中で、前職の広告代理店と出会い、就職することになります。

 

「子供のころからじっとしてなさいと母に言われていましたね。他の子とは違うけどそれを悪い方向には捉えるのではなく受け止めてくれた。私はわりとのんきな性格なのか、生きづらさは感じなかったです。でも仕事となるとそうはいかなかった」

 

自己と向き合う苦しさ

休職から半年間、寝てもよくならなかったというJさん。医師からは「これ以上休んでもよくならないし、一般雇用で働くのは難しい」とも言われたそうです。それからJさんは広告代理店を退職することを決意します。障害者としての働き方を調べるうちに就労移行支援にたどり着き、早速いくつかの事業所を見学に行きました。

 

そして、集合型のコミュニケーション訓練を行うよりも個別にeラーニングで訓練をするのが自分には向いていそうだと考えました。

 

「見学に行ったときに、この人に任せたいと思える人に出会えたのもmanabyに決めた理由のひとつです」

 

それから訓練を始めたJさんは、とにかく早く就職したい気持ちを支援員に伝えました。週5日、毎日通所すると主張しましたが、支援員からは週3日午前のみの訓練から始めようと言われて困惑します。支援計画を見て「なぜすぐ就活をしてはいけないのかな、できるのにな」と思っていたそうです。

 

実際に訓練を始めてみると、最初の1か月は週1日しか通所できませんでした。

 

「当時はなぜ通えないのかわかりませんでした。支援員さんは私がまず何をするべきなのかがわかっていたんですね」

 

休職中は抑うつ状態で常に睡眠不足だったため当時のJさんは体力がなく、生活が乱れている自覚もしていませんでした。体力の残量把握ができずに頑張りすぎて寝込んでしまうことも。支援員とのやりとりを通して、少しずつ自分の状態を把握していきました。

 

生活を整えることから始めたJさんは、3か月ほどかけてなんとか週3日通える状態になりました。しかし服薬や通院ができず、思うように生活リズムが安定しないまま不調が続きます。

 

そんなJさんでしたが、行動を変えられたきっかけがふたつあったそうです。ひとつは支援員に「できる支援は精一杯やるけど、限界がある」と言われたこと。薬を飲むこととしっかり食べることは、自分がやれなければ誰もできない、ということを改めて認識したときに、一歩動き出すことができました。

 

もうひとつは失業給付が切れるのを再確認したとき。思っていたよりも早く切れることがわかり、具体的な締め切りが見えたことで「いよいよ、ちゃんとしなきゃ」と思えたそう。

 

支援員との面談で生活面の課題を見つめ、自己と向き合う日々。何がストレスで、なぜ対処できないのかがわからず、泣いてそのまま家に帰ったことも。それでもとにかく薬を飲み、自炊を頑張り、通所日数を増やす努力をしながら就活準備を進めました。

 

「一番つらかったのは現実を直視することです。のらりくらりかわして生きていこうと思っていたけど、いざ就活をしてみたら、過去と向き合わなきゃいけない、かわせないんだということを理解しました」

 

Jさんはコミュニケーションに苦手意識はなく、就活も書類さえ通ればどうにかなると思ってたと言います。しかし最初に挑戦した面接で、自分のことを話すことができずに打ちのめされました。

 

きちんと過去と向き合い自己理解を深めて言語化するか、就活を諦めて社会の外側でひっそり暮らすか、を考えたときに「後者はかっこよくない。やるしかない」とさらに奮起したのでした。

新しいスタート

そうして少しずつ自分についての理解を深められるようになると、Jさんの体調は安定するようになりました。本格的に就職活動を行い、とうとう病院の総務職としての就職が決まりました。

 

総務の仕事では、資料作成やWebサイトの更新、イベントなども担当する予定です。飽きっぽい特性があるので、毎日違う仕事に会えていろいろな日々を過ごせるのが楽しみだと、Jさんは笑います。

 

「もしうまくいかずに悩んでいるとしたら、早めにしかるべきところに相談をしたほうがいいと思いますが、私としては悩んでいた時間は無駄じゃなかった。悩めるだけ悩んだらいいと思います」

 

自己と向き合う時間は苦しいけど、人生を自分らしく過ごし働くために必要で大切な時間。Jさんは、いまの自分の姿をしっかりと見つめながら、新しい仕事に挑戦します。

(2023年5月取材)